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インタビュー | 映画「わたしたちに許された特別な時間の終わり」

太田信吾(監督)インタビュー

映画にするということは考えず、カメラを廻し始めていた―
今撮らなければ、彼はどこかへ行ってしまう、という予感

増田壮太さんとの出会いについて聞かせてください。
僕が高校に入学した際、増田壮太は二才年上だったんですが、既に高校を退学していたんです。彼が友人たちと組んでいた"おきゃんぴー"というバンドは数多ある軽音楽部のバンドの中でも別格で、YAMAHAが当時毎年主催していた10代のための音楽コンテストの全国大会で優勝し、副賞としてCDの全国リリースが決まったんです。僕が高校に入学した時には既にCDを出してデビューした後でしたが、時折、教室やグラウンドでゲリラライブをやりに来ていた日もあって、その時に初めて、彼のバンドの演奏を生で聴いて打ちのめされました。楽曲にはその曲を作らざるを得なかったのだろうと考えられる圧倒的なパワーが感じられましたし、高校生としては希有なクオリティに達していました。同世代の中でも別格でした。いつか、友達になって直接話す機会が欲しいな、と思いつつも、内向的な性格もあって当時は自分から彼に近付くことが出来ませんでした。
監督:太田信吾 それから五年ほど経った2007年。彼が「ライブ映像を撮れる奴はいないか?」ということで、高校の友人のツテで、大学で映画を撮り始めていた僕が彼のライブ映像を撮ることになり、ライブ当日に初めて彼と直接話しました。やはりストイックな人だな、という印象がありつつ、けれど高校時代に比べて表現に対する迷いを感じたライブでした。それ以降、互いの家に遊びにいったり、ファミレスでお互いの創作について談義をしたり、恋愛の悩みとかくだらない話をしながら、次第に映画にするということは考えず、カメラを廻し始めていました。それは衝動的な欲求でした。今撮らなければ、彼はどこかへ行ってしまう、という予感にも似た。あるいはまた、カメラを通じて少しでも彼について向き合う時間を持ちたい、という。
もう一人の主人公ともいえる富永蔵人さんも魅力的です。彼との出会いは?
そんな風に漠然と彼のプライベートを撮影する日々が続く中で、「映画にしよう」と決心したのは、増田壮太が彼の後輩である冨永蔵人という音楽家志望の若者と、ユニットを結成した時でした。冨永は僕と同様、増田壮太に対して高校時代から憧れを抱いていましたが、高校時代から歳月を経て、増田は音楽で生計を立てられず悩んでいました。その姿は僕や冨永にとっては衝撃的で、表現とビジネスが結びつくことの難しさを痛感させられた出来事でした。冨永は純粋に音楽を楽しみたいという欲求があったので、彼は増田に弟子入りするかのように親交を深めながらも、音楽との関わり方を巡って議論が耐えませんでした。その議論を傍らで聴きながら、音楽を各自のスタンスで続けようとする二人の若者の姿を通じて、表現とは何か、自由とは何かを模索する、そんな映画としてもっと踏み込んで撮影をしようと決意をしたんです。

現実から目を背けたいという欲求
お葬式を撮るべきなんじゃないか?撮らなくていいのか?

増田さんの自殺について、観る側も受けとめるのが辛くなります。太田監督はどうだったでしょうか?
自殺という出来事によって、疎遠になりかけていた彼の存在が僕の中で膨張し始めた、という感覚です。辛い、という感覚は勿論ありました。けれども最初、その事実を彼の弟から聴いたとき、「いやいや、嘘でしょ」って感じでした。お昼時に、僕はちょうどラーメン屋にいて、注文したラーメンが出て来たばかりだったんですが、電話に夢中になってそのまま店を出て歩きながら喋ってました。「ホントか?死んだという口実を使ったライブの集客なんじゃないか?」とか、本当にどうしようもないことを考えながら、胸焼けと動悸があったのは、多分自分の中にももう取り返しのつかない状態に至ってしまった現実から目を背けたいという欲求があったからなのでしょう。
葬儀にいくときも、あくまでも彼とはドキュメンタリー映画を作る、という目的で繫がっていたということもあり、お葬式を撮るべきなんじゃないか?撮らなくていいのか?と、撮影することから逃げようとする自身の欲求と戦っていました。葬儀が終わっても、当然、生前彼と頻繁にあっていた人間の一人として禍根は残り、自責の念に駆られ塞ぎ込んでいた時期もありましたし、卒業してから就職もせず映画を続けていたけれど、人間関係も経済的な部分でも上手くいかず、自分自身も自殺を考えた日もありました。全て、自身が持つべき責任から目を背けていた方が楽ですから。

残された遺書の言葉―「映画を完成させて欲しい。出来ればハッピーエンドで」
この映画は、喪失の痛みを乗り越え生への意志を獲得していく旅そのものだった

葬儀が終わってしばらく経ったころ、彼が残した遺書がある、という話を共通の友人から聞きました。彼の実家を訪れてそれを読ませてもらうと遺書の中に「映画を完成させて欲しい。出来ればハッピーエンドで」という僕への言葉が残されていて、自分でもどこから湧いたのかわからない、不思議なエネルギーに後押しされて、映画を完成させる、という人生における強固な目標に立ち向かっていくこととなりました。とはいえ、人の死をドキュメンタリー映画で扱っていいのか?という迷いから、なかなか彼のご両親に僕の率直な気持ちを伝えることが出来ず、時間がかかってしまったり、結果的に映画を完成させるということを彼の両親も了解してくれてからも、ハッピーエンドの意味がわからず、映画をどうまとめるかという創作的な部分でも模索した時間がありました。そういった意味では、試練の連続でしたが、わたしにとって映画を作り伝えていくということは、喪失の痛みを乗り越え生への意志を獲得していく旅そのものだったと考えています。
タイトルの由来、つけた理由はどういったものでしょうか?
タイトルはチェルフィッチュという劇団の主宰である岡田利規氏の同名小説集から付けさせてもらっています(「わたしたちに許された特別な時間のおわり」岡田利規 著/07年2月/新潮社、のち文庫化)。その小説集に収められている二作品(『三月の5日間』『わたしの場所の複数』)からは共通して、いかに不自由さ、生きにくさ押し付けてくる社会システムのなかで、自由を獲得するか、という"無気力"と揶揄されがちな日本社会を生きる若者たちの抵抗、希望をカジュアルに、そして徹底的にリアルに描かれています。
『三月の5日間』ではイラク戦争の最中、渋谷のラブホテルでセックスに耽るフリーターの男女やデモに参加する若者たちの群像を通じて、『わたしの場所の複数』では、アルバイトを掛け持ちしている彼氏が合間の時間に喫茶店の中でつかの間の睡眠を取る一方で、彼と同棲している彼女が仕事を休み自宅のベッドの中でまどろんでいる、それら複数の場所での脱力的ともいえる行為、時間の過ごし方を通じて、無気力な時間の持つ希望的な側面をわたしは小説から受け取ったのです。ある程度の無気力さはやがて舞い戻る現実において、生へのエネルギーに繫がっているのだという点において。様々な現実の壁にぶつかりながら、立ち止まりながらも、生へ立ち向かっていこう、繋げていこう、とするこの映画の出演者たちのことが思い浮かび、これ以上のタイトルはないと考えました。

彼が死んで、姿が消えても、彼から与えてもらった影響を受けて、僕はこうして存在している
死は終わりではなくて、始まりだと思う―

フィクションパートとの組み合わせが独特で印象的です。その発想の源はなんでしょう?
時系列で主人公の人生史を語る、そういう構成にはしたくないという強い欲求がありました。そういう構成では、彼の死を、死として消費してしまうから。死を消費せず、生へのエネルギーに満ちた映画にしたい、そんな自分自身の欲求が今回の構成に結びついていきました。そして、映画をどうまとめていいのか、悩んでいた時期に、企画・撮影段階のドキュメンタリー映画について、若手の監督たちが互いの企画をプレゼンし合い対話をしながら、自身の企画をブラッシュアップしていく、というワークショップに参加していた時期があって、そのプレゼンのときに「増田君には自殺の才能があったんじゃないか?」と僕がこんなこと口にしていいのか?と若干悩みながらも口にした言葉を、後に映画のプロデューサーとしてお願いすることになる土屋豊氏が拾って「その考え方は面白い」と言ってくれて、ああそうかと、自殺という行為も一つの選択なんだということに気づいて。
監督:太田信吾 主人公の増田君には過去の華々しい経歴を堂々と自慢出来る度胸や、何事も無自覚ではなく自覚的にコントロールしてクオリティを高めようとするアグレッシブな姿勢があったから、死んだ後も、一時的な感情の爆発や、突発的な仕方で自殺という選択を、というか選択をしたという自覚もそういう人たちにはなく追い込まれていたのかもしれないですけど、自殺と一言にいっても、その選択や実行、アフターケアの仕方は千差万別だということに気付いて、その細かな部分を描くことで、安易に自殺という選択肢にたどりつかずに済む人もいるのではないか?自殺ということが一体どういうことなのか、映画を観る皆さんに考えてもらえるのではないか?それが翻って生のエネルギーとなってもらえたら、と考えて死後の世界というフィクションパートを構築していきました。
死というのは、センセーショナルな事件として扱われがちで、確かにそういう要素は他者の死という現実にはつきものなのかもしれません。しかし、死があってこそ輝く一瞬の生があり、死を、たとえそれが自殺だとしてもネガティブなものとして忌避する態度は取りたくなかった。彼が死んで、姿が消えても、彼から与えてもらった影響を受けて、僕はこうして存在しているわけです。そういった意味では死は終わりではなくて始まりだと思っています。
良い映画というのは良い遊びから産まれる。映画を信じられなくなって自閉的になっていた頃、先輩の監督から教わった言葉です。誰かと何かを共有し、傷付け合いながら、それでも生きていくことの醍醐味を、この映画の制作を通じて僕はは学びました。そのことが少しでも、滲み出て、映画を観てもらった人に伝わって欲しい、そう思っています。

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